- 2007年10月31日 10:56
- 音楽
いったい何なのだ、あの言葉の軽さは。ふわふわふわふわと、中身のない言葉のオンパレード。どこからか適当に拾ってきた美辞麗句を連ねて、かたちだけを取り繕った無意味な言葉のむなしさ。
場面によって言うことが変わる。本当の自分がどう思ってるのかが読み取れない。見かけ万人に優しいような言葉を使っていても、ものの考え方や人間性が浮かび上がってこない。それはただ、媚びているだけ、のように見えてしまう。それでは、自分の頭で考えていない、ないしは、考えているつもりでいて本当は考えていないということに気づいていない、ということになってしまうではないか。いや、本当は別のところで別のことを考えているのかもしれない。けれども、そのやりかたでは、考えが、人間が、伝わらない。
つまりそれは、書く技術ないし訓練が足りないということなのだとは思う。こと感情や感覚を取り扱う音楽であるからこそ、言葉にはキレが必要だ。感覚を客観的に正確に説明できる能力があればこそ、感情を論理的に再構築することができる。それは、感情を殺すということでも感情を作るということでもない。自分が感じたものを客観的にとらえなおし、自分自身の言葉で論理的に表現することによって、相手に自分の感情を正確に伝えるということである。それは論文を書くときだけに必要なことではない。あらゆる表現において必要なことである。であるのに、音楽を語るにおいて、感覚を感覚で説明(説明、にもなっていないが)することで互いにわかったような気になり、結果、すべてが感覚的・直感的な話に終始してしまうことに、非常に強い違和感を覚える。それでは結局、独りよがりになってしまうではないか。悲しいことに、残念なことに、音楽家にはそういうタイプが多いように思える。ああ、なんたる憂鬱。
吉田秀和を見よ。吉田の書く文章が大きな力を持っているのは、自分の目でものを見、自分の頭でものを考え、自分の言葉でものを語るということを徹底して突き詰めているからだ。その作業の積み重ねによって、言葉は凝縮し、大きな力を得、かつ誤解の余地が排されて、誰にも論旨が明確に伝わるものとなる。そして、さらにすばらしいことに、それは一片のウィットを失わない。客観的で正確でありながら、吉田というひとりの人間のかざらない姿がそこに浮かび上がる。それは、紛うことなき吉田の文章である。個性とはそういうものであろう。翻って、では、あなたはどこにある?
今日中の書類があるのだけど、この気分をどうしても片付けておきたかったので。