- 2009年10月17日 03:17
- 日常
9月20日。その日私は山形にいた。酒田市で行われる日本アマチュアブラスアンサンブル組織(NABEO)のフェスティバルに参加するためだった。翌日は演奏会本番。前夜祭の盛り上がりも最高潮を迎えようかというとき、ポケットの携帯が震えた。母からのメールだった。
いまどこ? 血圧低下しています。人工呼吸器もう一度つけますか
肺炎の再発だった。医者の判断はどうなのかを問う返事を書いたが、その日母からはもう返信はなかった。迷ったが、その日それから帰宅するのは不可能だったこともあり、帰れるとしても翌日の夕方になる旨を実家の弟にメールし、様子を見つつ翌日午前の本番を終えてから帰ることにした。ただ翌日の本番は最悪で、3曲組曲の2曲目まではなんとかごまかしたものの、3曲目で頭も体も完全に機能停止してしまい、数分の間ほとんどなにも音を出せないまま、ただ呆然と音符が流れ去っていくのを後ろから見ているだけだった。メンバーのみんなには本当に申し訳なかった。いたたまれず、楽器をしまうと着替えもせずに会場を抜け出し、T氏に駅まで送ってもらって山形から逃げ帰った。
父は、その半月ほど前から入院していた。腰の激しい痛みを訴えて外来を受診し、そのまま入院。その時点ですでに意識が朦朧としていたらしい。翌日になって急激に肺炎を起こし意識不明、私が駆けつけた頃に挿管となった。その時点でもうだめかと思ったが、持ち前の体力からか、奇跡的に回復し、やがて意識も戻って呼吸器も外すことができた。当初いわゆるせん妄(あるいは肝性脳症もあったのかもしれない)で意識が混濁し、まともな会話はできなかったが、その後は自力で食事をとり、大部屋に移るまでの回復を見せた。私が山形行きを最終的に決意したのはその頃だった。
その前に父に会ったのは、お盆の頃だった。その時も父は入院中であった。診断は肝膿瘍であったが、その検査の過程で大腸に「なにか」が見つかったとのことだった。主治医の説明を聞きながら見た写真に、たしかに腫瘍らしきものが写っていた。
その翌日、父は外泊の許可をとった。私が息子を連れて実家に泊まりに行っていたからだった。子供は前々からじいちゃんとクワガタ取りに行きたがっていた。その晩、父を助手席に乗せ、母と子供を後席に乗せて、夜の山道へ向かった。道路脇に車を止め、街灯の下を獲物を探して歩いた。事前に確保していた虫を道ばたに放し、いたよー、と子供を呼ぶ。文字通りの子供だましの演出だったが、それでも楽しかった。ならんで歩く父と母の姿を見たのも、父とまともな会話をしたのも、それが最後だった。
・・・
私が小学校五年生のとき、母方の祖父が亡くなった。それが私にとって初めての身近な人の死だった。その頃、何ヶ月か?の間、母に連れられていくつもの病院を回ったことをよく覚えている。そしてある夏の日、父と妹弟と、車の中で横になりながら不安な夜を過ごし、最後に死の知らせを聞いた。本当にそのことの意味を理解していたかどうかは別として、私は車の中でしばらく泣いた。その後しばらくの、母の悲しみにくれた姿が、いまでも目に焼き付いている。
いまから思えば、これが、人間の存在に対する漠然とした不安の芽生えるきっかけだったのかもしれない。死の確かさに対する恐怖と、生の不確かさに対する不安。人はなぜ生まれ、なぜ生き、なぜ死ぬのか。思春期、毎日のように自分が死ぬことを想像した。中学の担任との交換日誌で、死について、生について、問うた。結局よくわからなかった。芥川やカフカ、中島敦などを読みあさったのもこの頃のことだ。その不安は、結局、今に至るまでどこかに染みついて離れないまま、心の中にずっと潜み続けてきたのだと思う。それが、父の死によって、ふたたび呼び覚まされたのだろう。あの日以来、自分はずっとどこか不機嫌なままである。みんな、ごめん。
ひょっとしたら、と思うのだが、父もまた、生の不安にさいなまれていたのだろうか。父は、若くして弟をひとりなくし、また母と父を(私にとっての祖母と祖父を)立て続けになくした。母の言によれば、父の酒量が一気に増えた(このことが父の肝臓に致命的な打撃を与えることになるのだが)のは、祖母が亡くなってからのことだという。後になって聞いた話だが、祖母は父をことのほかかわいがっていたらしい。父もまた、表には出さなかったが、自分の母を深く愛していた。
・・・
私がふたたび父のところへ行ったのは、山形から戻った翌々日だった。なんとなく一度目と同じように回復するのではないかと思っていた。が、現実はそうではなかった。私は、山形に行ったことを、(たとえ意識が混濁していたとしても)一時回復したときに訪ねなかったことを、後悔した。
病室に入ると、目を開けられないように、両方のまぶたに透明なテープがべったりと貼られていた。前の時と違って、自発呼吸との競合でリズムが乱れることもなく、一定の間隔で呼吸器の音が響いていた。私は父に話しかけ、頭をなで、手を握り続けた。テープの貼られたまぶたの隙間に、涙が浮かんでいた。薬で眠っていたはずだが、話が通じたのかもしれないと思った。65、50、25。30分ごとの計測のたびに、少しずつ血圧が下がっていった。やがて医師が現れ、瞳孔を確認し、時刻を告げた。
一度病室の外へ出され、呼ばれて再度戻ってみると、呼吸器が外され、両目のテープがはがされていた。唇に固着していた血液も、きれいに拭き取られていた。私は、最近新調したというひげ剃りで、父のひげを剃った。最新型の電動ひげ剃りのはずなのに、うまく剃れなかった。看護師さんが丁寧に丁寧に化粧をしてくれている様子を、手を握ったまま、そばで見ていた。